日々を彩るエネルギー 

小さな力を感じながら、ゆるやかに前に進む。そんな毎日を気ままに綴っています。

ハチロクと過ごした、ひとりの週末

僕が会社に入ってまだ数年、26歳のときの話です。

 

なぜか衝動的に、トヨタのディーラーに飛び込んでしまいまして……。

 

勢いで買ってしまったクルマ。

トヨタ・カローラレビン(AE86)。

いわゆる“ハチロク”と呼ばれるクルマです。

コミックなんかでも有名になりましたが、当時は単なる大衆車のスポーティーバージョンというステータスで、“ハチロク”という名称は一部のカーマニアのみぞ知る名前でした。

 

僕が選んだのは、ノッチバックのGT。

ファブリックシートに鉄ホイール、エアコンもなし。

見た目も装備も、なんてことないんですが、

中身は上位モデルと同じエンジン(4AG)を積んでいて──

いわゆる“通好み”のやつでした。

 

何より、このクルマには「これから手を入れていく楽しみ」がありました。

 

ボーナスが入るたびに、ちょっとずつパーツを変えていく。

ステアリングはイタルボランテに、タイヤは当時の扁平スポーツタイヤ185/60のブリジストンV-GRID、ホイールはBBSに。

洗車は手洗い、セーム革で丁寧に水滴を拭き取ったあとは、シュアラスターワックスで仕上げ。

今思えば、そうやって手をかけていく時間そのものが、

なんだか愛着につながっていたように思います。

 


 

 

夜の海へ、ひとりで向かう時間

 

 

週末の深夜になると、急に海が見たくなって、

実家のあった埼玉から、大洗の海までクルマを走らせてました。

 

正確なルートはもう忘れてしまいましたが、国道125号を東に走って、4号線に入って水戸を抜けて──

3時間くらいの、ちょっとした深夜ドライブでした。

 

車内ではAORのカセットを流して、ひとりきり。

途中のコンビニで缶コーヒーを飲んでいると、同じような年格好のハチロクオーナーに声をかけられることもありました。

 

「僕のクルマと同じですね」なんて。

たいていはGT-APEXのオーナーでしたけどね。

 

当時の僕は、毎日が忙しくて、余裕もなかった。

だからこそ、週末だけはこうして、

静かな海を眺める時間がなによりのリセットになっていました。

 


 

 

峠道をのんびり走るだけでも

 

 

日曜の午後には、峠道にふらっと出かけることもありました。

 

国道17号を北上して、高崎から国道18号旧道を登って碓氷峠へ。

あの道は昔から人気があって、五木寛之の小説などにも登場する走り屋の聖地です。

 

ハチロクの1600cc/130馬力という動力性能は、とてもじゃいけどスポーツカーのそれではありません。

車重が1tで、後輪駆動(FR)、挙動はクイックではあるものの、流石に碓氷峠では苦しそうなエンジン音。

ご多分に漏れず、後ろから国産スポーツの王道フェアレディZ、筋金入りの走り屋御用達180SXなんかに煽られる洗礼を受けました(苦笑)。

 

僕はといえば、ただのんびり走りたいだけ。

なので、速いクルマが来たら素直に道を譲って、エスケープゾーンにクルマを停めて、当時は喫煙者だった僕は、マイルドセブンかなんかをふかしていました。

 

あの峠の風の気持ちよさには、ボビー・コールドウェルの「風のシルエット」がバッチリ合うんですよ。カセットで聴いてました。

 

軽井沢まで行くと、空気ががらりと変わって、ひんやりしていて気持ちがいい。

そこでも缶コーヒーを片手に、木陰でぼーっとする時間が、なんとも贅沢に感じました。

 


 

 

クルマは、寄り添ってくれる相棒だった

 

 

こういう話をすると、ドライブの思い出って

女の子とのエピソードが出てきそうなものですが、

当時の僕はずっとひとり。

 

誰かと過ごすより、クルマと向き合っていた方が落ち着きました。

なので、婚期も少し遅れました(苦笑)。

 

平日は余裕もなくて、気持ちが張りつめていたぶん、

週末は少しでも素に戻れる時間が欲しかったんだと思います。

 

ハチロクは、そんな自分にちょうどいい距離感で寄り添ってくれる相棒でした。

 

振り返ってみると、

あの頃の僕にとってクルマは、“心の整え方”を教えてくれた存在だったのかもしれません。

 


 

 

あの頃の自分に

 

 

もし今、あの頃の自分に出会ったなら、

「スモーキークォーツ」という天然石をプレゼントしたいです。



派手さはないけど、落ち着いた色で、どこか芯のある静けさがあって。

大洗の海や、峠の空気に、どこか似ている気がします。

 

あの週末のドライブこそが、“心をととのえる時間”だったと、素直にそう思えます。

 

そして、いまの自分はあのときとは違う形で、また「静かな時間」と向き合っているのかもしれません。